笑いのアル生活

日常にクスッとした笑いをみつけたい

感情について

トスカニーニの話を書き出して、

書いている途中で何を書きたかったのか忘れてしまったので無理矢理オチをつけ、

用事があったので二階へあがったのに

あがった瞬間、何しに来たのか忘れてすごすごと一階へ戻る

そんな状態ですねぇ

そうか。タイトルを先に入れてしまえば忘れないかもしれない

で、トスカニーニの話。

 

彼の演奏はメトロノームのように正確だったそうで

ベートーベンの交響曲を指揮すると

何年も前に振ったときと2秒しか違わなかったという逸話が残されており

(これが言いたかったんだ・・・)

テンポや音量など、できる限り作曲者の意図に忠実であろうとしていたそうな。

オペラでもプリマドンナですら勝手気ままに歌うことは許されなかった。

かといって無機質な音楽を求めていたわけではなく、

感情や情緒的なものがトッププリオリティ。

スコア(総譜)から作曲者の意図した意志と感情を最大限にくみ取ろうとした。

トスカニーニにとっては音楽とことばの関係だけでなく、作曲者の筆跡でさえ、意味を持っている。ある友人がドビュッシーのめずらしいスコアを見せ、作曲者の書いた原稿だと自慢した。トスカニーニはそれを綿密に調べて、「模写だ。筆跡に感情がこもっていない」と断言した。後でそのとおりだとわかった。

 

音楽は再現芸術と言われることがありますが、

これは作曲者が意図した意志を楽譜にうつし

演奏者が再び生命を吹き込む作業を指すからです。

単なる再現だけではなく、

演奏者の意志と感情がそこに加わります。

トスカニーニは偉大な指揮者といわれるだけあって楽譜だけでなく、

筆跡に対しても感情を読み取ることに長けていたであろうと思ったのです。

 

話は全然かわるのですが、

数十年前の話、

芸能人のデビ婦人がゴシップ記事について語ったとき、

その内容がまったく薄っぺらに思え、

「わたしは週刊誌を読んで勉強しているのです」というニュアンスのことを言ったので、

なんだこれは週刊誌の受け売りか。

ご本人の意見ではないのだ。

まがりなりにも大統領夫人として君臨し、

人とは違った経験もたくさんしてきただろうに

自分の言葉で話さないなんてなんともったいない

と失望した記憶があり、

 

他にも知り合いに

社会情勢やニュースになった問題に対し、

的確な意見を述べるのですが薄っぺらに聞こえてしまう方がいて、

ある人いわく、

「週刊誌的な意見など聞きたくない」と言われて

ああ、なるほど。

的確な意見はご自身の意見ではなく、週刊誌の受け売りだったのか

と納得したことがあって、

 

時代劇で

「ヘン、聞いてきたような口をきくんじゃねえよ」とか

「とってつけたようなこと言うんじゃねえよ」とか

偉そうに意見を言う人を揶揄するような啖呵を切る場面があり、

 

ネットの中でも

「かくかくしかじかああなったときにはこうすればうまくいく」

という意見に

「こいつ、頭の中でこねくりまわしてるだけ」

とレスが入り、

「まさにそう。経験に裏付けられた意見だとはとうてい思えない」

と膝をポンと叩いたことが思い出され、

 

何かを語るときには

できる限り自分の言葉で

意見や感情を表出させる必要があるんだなぁと思ったしだい。